後藤からバトンを受け取りました。バックスの澤井啓輔です。

後藤からの紹介文が「声がよく通る澤井」だけだったことにいささかがっかりしております。もっとなんかあったでしょ絶対。
一年生の時に体重競い合ったこととか、帰り道にユニホーム渡しで何を話すか考えたこととか、え?覚えてるの俺だけ?
はぁ、これは樋口もメンヘラになるわけですわ。かわいそうに。

はい、ということで、樋口とイチャイチャしようとしたら間違えて肉離れさせちゃった、悲しきモンスター後藤君からバトンを受け取りました。四年バックスの澤井啓輔です。

もう、最後の部日記を書くことになるなんて、さみしいですね。

この一橋の部日記のことを知ったのは高校二年生のころでした。高校の先輩の高垣さんの部日記を、顧問の先生から聞いて読みました。
気が付けば夜遅くまで、他のラグビー部員の日記を読み漁っていました。名前も顔も知らない人の文章に、心が熱くなり感動したことを覚えています。

そんなかっこいい文章は書けないけれど、当時の部日記で主流だった一年から四年までを順に振り返るというスタイルで、最後の部日記を書いていこうと思います。

一年生。

県千葉の元主将ということで、周りからちょっと期待されていたと思います。
そんな期待とは裏腹に、パスが絶望的に下手で身体も小さい自分は、二年連続のSO外れ枠と呼ばれていました笑(先代は須田さん)
周りのかんちゃんやりんちゃんそしてFWの同期はすぐ試合に出ていて、強い劣等感を感じました。

とりあえず、体重増やさなきゃ!と思って必死に増量してました。
今では考えられないですが、当時自分とおんなじ体重だった後藤をライバルにして、競い合って増量しました。米2合半を学食に持っていき、おかずだけ買って食べていたこともありましたね笑。まあ、後藤は一平ちゃんをおかずに米三合をファンタで流し込んでいたわけですが、、、

そんなこんなで、なんとか試合に出れるフィジカルがつきました。
先輩に怪我人が出て、夏合宿からAの試合に出場できるようになり、対抗戦もメンバー入りすることができました。

一年の対抗戦はあんまり勝てなかったけど本当に楽しかったです。
立教戦でトライを取ったことは今でも覚えてます。ごっつぁんトライだったけど、大好きな先輩たちがワーッと駆け寄ってきて祝福してくれて、本当に嬉しかった。こんないい思いをあと三回もできるのか、と思うとラグビー部に入って良かったと心の底から思いました。

当時の四年生は「勝たせてあげられなくてごめん」「一年生に負担をかけてごめん」とよく言っていました。でも一年から試合に出れて、先輩から褒められて、楽しくて仕方なかった自分はなんで謝られているのか全く分かりませんでした。
特に怪我で出られない松尾さんには、逆に自分なんかが試合に出ててごめんなさいと思っていました。

今になって少しあの時の四年生の気持ちがわかる気がします。

二年生。

理不尽なくらいでかい先輩たちとくる日も来る日もコンタクトをやり、病みかけましたが、何とか練習についていってました。先輩の怪我もあって運よくレギュラーになり、対抗戦に出場できました。

この年は強いチームでプレーする楽しさを身にしみて感じた年でした。どこにも負けないスクラムを組むフォワードは誇らしく、勇気さんや平手さん上杉さんの近くでプレーできたのは貴重な経験でした。しかし、ほとんどボールに触らずに終わった試合も多く、チームに貢献しているとは言えない状況でした。

自分は正直運がよくてここまで試合に出れていました。
来年こそはチームの中心メンバーになってチームの勝利に貢献したい、勇気さんのようなみんなから頼られるプレイヤーになりたいと強く思いました。

3年。

圧倒的だった四年生が抜けて、自分もBKを引っ張っていく側になるんだ、と意気込んでいました。
また、なによりも同期や身近な先輩後輩と一緒にプレーすることがとても楽しみでした。学芸戦はぼろ負けしちゃったけど、ますこやとみー、西尾と一緒にプレー出来てとても楽しかったです。

そんな希望に満ち溢れている中で、アキレス腱を断裂しました。
切った瞬間、後ろから撃たれたのかと思うくらい、自分の足から大きな音が鳴りました。その時はアキレス腱断裂なんて知りもしませんでしたが、これはまずいことになったと本能的に感じました。

一日二日は全く実感がわかなくて、正直ことの重大さがわかっていませんでした。でも、手術のために実家に帰る車の中ではじめて泣きました。
国立からどんどん遠ざかって行く車内で、もう今シーズンは復帰できないんだという実感が急にわいてきました。
対抗戦でプレーする喜びを今年で卒業する先輩と分かち合うことはできないんだと思うと涙が止まりませんでした。

「なんで自分が」と卑屈になったり、楽しそうに練習する同期を恨めしく思ったりすることもありました。そんな自分がリハビリを継続できたのは間違いなく、白石と村山のおかげです。

二人とも弱音をはかないどころか、暗い雰囲気すら微塵も出していませんでした。
白石なんて、二回も前十字靭帯を切って、もう一回0からリハビリをやり直さなきゃいけないのに黙々とリハビリに取り組んでいました。そのつらさは自分には想像できません。
そんな二人がいる前で、卑屈になったりリハビリをさぼったりするのはかっこ悪くてできませんでした。
彼らがいたからこそ自分はきついバイクメニューを乗り越えることができたんだと思います。

四年。

久しぶりに練習に復帰した時、ただのなんてことのない練習がどれだけ貴重なものなのか身に染みてわかりました。
みんなと同じメニューをこなして、みんなと同じテンションで「今日マジでつかれたわ」と言えることが、長いリハビリを終えた自分にとってはとても嬉しく幸せに感じました。

だからやっぱり、肩を怪我した時はとてもがっかりしました。またかと思い、どうしてもモチベーションが上がらない時もありました。
今振り返ったら、自分のことに精一杯でほとんど四年らしいことをしていない一年間でした。
同じく怪我を抱えるかんたを支えることができず、申し訳なく思っています。

それでも何とかギリギリ復帰することができました。
二年生の頃に夢見たチームの中心的存在にはなれてません。しかし、怪我に苦しめられて、練習もできない期間が続いた僕にとっては、試合に出れるだけで、とても嬉しいです。

四年間をともに過ごした同期と、そして後輩と共にプレーできることは自分にとって、とても幸せなことで、昨年は得ることができなかった貴重な経験です。その幸せをかみしめて残りの5試合全力で戦っていきたいと思います。

ここまで、怪我のことについてつらつらと書いてきましたが、自分は怪我をネガティブに捉えてません。怪我をして、リハビリを乗り越えたから今の自分のプレーがあると思っています。
そんな風に思えているのは、長い間リハビリの面倒をみてくれた松岡さんのおかげです。松岡さんだからこそ、信頼してリハビリをやり切ることができました。ありがとうございました。また、オペしてくれた守谷先生と秋山先生、復帰まで面倒を見てくれた韓先生、本当にお世話になりました。おかげさまで無事に競技復帰できました。

竹内さん。自分の身体の基礎はTFCで培われました。小さかった自分を大学ラグビーで通用する身体にしてくれてありがとうございました。やおぎんのおじさん、おばさん。一人暮らしの自分は、「おかえり」「いってらっしゃい」と言ってくれるやおぎんが第二の実家のようなものでした。阿久津さん。TFCと阿久津さんがごちそうしてくださるご飯で身体づくりの基礎ができました。これからもラグビー部をよろしくお願いします。そして、応援してくれる両親。浪人や一人暮らしに手術とたくさん迷惑をかけました。自分のわがままを聞いてくれてほんとうにありがとう。おかげで、かけがえのない学生生活が送れました。

最後に、東大戦の意気込みを書いて終わりにしたいと思います。
一年生の頃から東大は絶対に負けたくない相手です。推薦がない国公立というほぼ同じ環境で戦う東大との試合は、言い訳が一切できないからです。
東大には高校の同期もいます。彼の4年間と自分の四年間、そして島田組としての一年間がもろにためされている気がします。
だからこそ、次の試合は全身全霊をかけて臨みます。島田組の一勝目は何が何でも東大戦で上げたいです。

次にバトンを渡すのは嶋井です。
下級生は知らないかもしれませんが、嶋井はまさる以上の超ハードタックラーでした。どんなに大きい相手にも臆せずにタックルに入る嶋井を密かに尊敬してました。
長い間怪我に苦しめられ続けている彼にはいろんな思いがあると思いますし、彼にしかわからない苦悩があったと思います。自分が無責任なことは言えません。でも、部に残ってくれて個人的にはとてもうれしく思っています。

あ、、あの 更新遅れちゃってほんますんません。次、お願いします。